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「AFTERNOON PIANONNO(アフタヌーン・ピアノンノ)」は、平成4年の北大ピアノクラブ創設当初所属していた部員のうち、一部のOB/OG仲良しメンバーが集まって2010年からやり始めた、小さなサロンコンサートです。茨城で知り合った音楽を愛する仲間さんたちと一緒に年に1度集まり、なるたけお金をかけずに気軽に音楽を楽しもうという、ただそれだけを思って始めた、ささやかな集まりです。 ぼちぼち、ゆる~く、続けていこうと思っております。よろづ帳はこちら! ブログへのご意見・ご要望はこちらまで。

2015年8月1日土曜日

福島のOさんが長文の所感を寄せてくださいました!!!~第二弾~成年編

引き続き、大人の演奏について福島のOさんが長文の所感を寄せてくださいました!!
この文章、私は読んでいてすごく学生時代の懐かしい匂いがしました。氏名をイニシャルに替えて転載させていただきます。


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さて、成年ピアノの部門です。
なんだか、曲の解説みたいなものもかなり含まれていて、演奏そのものの印象からは離れているような気もしますが、
とにかく感じた事、思っている事、考えている事を好き勝手に書いています。サイトに載せる場合、何か失礼な部分があったら、適宜訂正して構いません。
何かの参考になれば幸いです。

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N.Mさん
サウンドオブミュージックのナンバーの中で文字通り、私の一番好きな「私のすきなもの」を弾いてくれました。ありがとうございます。すでに50年前の映画なので、この音楽を聞いて、映画の場面が思い浮かぶ人も徐々に少なくなっていると思います。この映画は、音楽そのものが独り歩きした典型で、特にこの曲は、ドレミの歌に並んで、かなり様々に編曲されているナンバーの一つでしょう。今回は、ジャズバーション(というか、編曲の大部分はジャズ風)ということで、「いき」に決めてくれました。曲自体が非常によくできているので、自分の心の中に何かしら感じる所があれば、このように自分の音楽に昇華できるのです。逆に、感じる所がなく譜面通りに弾くと、ただの退屈なワルツのようになってしまう曲でもあります。余談ながら、改めて是非「サウンドオフミュージック」を鑑賞される事をお勧めします。音楽の視点で見ると、音楽素人だったはずの子供たちが、マリアにいきなりふられて、ぶっつけ本番であっさりとドレミの歌をポリフォニック(違うメロディを同時展開)に歌いあげるという、かなりぶっ飛んだ内容の映画です。まあ、それはミュージカルのお約束と言えばそれまでですが、「私のすきなもの」がどんな場面で使われているかを見るだけでも、いろいろ考えるものがあると思います。




S.Kさん
天平さんの作品を生で聴くのは初めてで、たぶん一期一会という曲を聴くのも初めてでした。天平さんの事は極めて部分的にしか知らないので、勝手に「超絶技巧の西村由紀江」などと自分の中で勝手に思っていたのですが、この曲を聴いてもうちょっと幅広い視野と矜持で音楽を捉えている人なのかなと思いました。S.Kさんの演奏は、なんといっても左手の歌わせ方が本当にいいですね。メインの旋律と対話するように曲全体をまとめていて、感傷に溺れない、しっかり自分の足で立って、何かを見守っているような演奏でした。




♠I.Kさん
物凄く有名な曲ですけど、聴くたびに発見があって、決して聴き飽きる事のない、まさに名曲です。やはり不滅の名曲を弾くと言うのは大切だと思うのです。今回、いろいろ雑談していたら、大昔、みんなが読む雑談帳のようなノートに私が「ピアノのテクニックは金銭のようなものだ」と書いていたらしいんです。書いた本人はよく覚えてないながら、なるほどなあと思いました。手持ちのお金があまりに少なければ(例えば財布に5円しかないとか)、いくらなんでも、その金銭で出来る事はほとんどないでしょう。しかし、これが500円であったらどうでしょう。様々な使い道が考えられます。その使い道によって、その500円は生きもするし、死にもする。作品27-2の1楽章を弾くというのは、I.Kさんにとって、まさに現時点で持っているテクニカルなものを有効活用して、音楽的な豊かさを最大限得られる選択だと思うのです。500円かどうかは置いといて、とてもいい使い道をされていると思います。テクニカルな面に重きを置くような若い人の中には、「月光の1楽章なんて三連符が続くだけの単純な曲じゃん」と軽く見ている場合があります。そういった人は、例えて言うならお金の真の価値がわからない、「値段が高いものほどいい」と言った成金趣味のようなもので、真に豊かな音楽体験からは遠いように思います。ということで、II.Kさんの演奏は、自分の音楽を作ってゆくという強い意思が感じられる、本当に真摯なものだったと思います。




Y.Nさん
私の勝手なイメージではY.Nさんは、3楽章というよりも1楽章の透明な響きが似合うのかなと言う感じだったのですが、今回の3楽章を聴いて驚きました。改めて先入観っていうのはいけないものですね。繊細さはそのままにきちんとダイナミックもあるし、誠に堂々たる熱演。テンポもほとんど無意味に揺れることなく速すぎず遅すぎず、ソナタ形式を意識した再現部の微かな工夫もしびれます。この曲の魅力というものを再認識できた演奏でした。続けての演奏ではなかったですが、久々に1楽章と3楽章を同じ演奏会で聴いて、「幻想曲風ソナタ」と名付けられたこの曲の革新性を思います。そして、奇しくもバッハを演奏する人が多い中での、この曲(幻想曲風という中には、やはりバロック時代の「幻想曲」の伝統を受け継いでいるという自負がベートーベンにはあったんだろうと思います)の配置もなかなか偶然とはいえ、よかったですね。




♠Y.Oさん
サティというと「ジムノペディ」「グノシェンヌ」「君がほしい」以外の曲を実際の演奏会で聴く事は、特別な企画でもない限り、非常に少ないものです。なぜこの3曲がよく演奏されるかと言うと、たぶん独特の「雰囲気」をもちながら、歌謡性と様式においてぎりぎり普通の音楽らしさがあるからでしょう(そういった曲は他にもあるのですが、やはりインパクトに欠けるのでしょうか)。しかし、「ゆがんだ踊り」ともなると、多くの人はどう聴いたらわからないかもしれません。全く予想のつかない、とりとめのない和声進行と旋律。サティ自身も厳密な音楽理論で作っている訳でもなく、何か伝えたい事がある訳でもなく、ただ空気のように漂っていればいい音楽を量産しました。つまり、聴いてもらわなくてもいい音楽、必然性のない音楽なのです。こういった曲を演奏会で弾くと言う勇気にまずは感嘆せざるを得ないです。Y.Oさんの演奏は、サティの意図通り、物語を作らずに淡々とサティの音楽世界を醸していました。この曲、無意味な単語を覚えるのと同じく、暗譜はかなり難しいですよね。意味のない事を持続すると言うのも、なかなかの精神力を必要とします。しかしながら、続いて弾くのがサティと全く逆の「絶対に聴いてもらうために作り、厳格な様式の上のみに成り立つ音楽」であるバッハ。しかも、前奏曲なしでいきなり緊迫感のあるホ短調フーガとは、、。これはこれで、全く違う方向の精神力が必要です。なかなか苦戦していましたが、当然と言えば当然で、音楽を作るうえでの精神状態が全く違いますからね。しかし、聴いている方はサティからバッハへという普通ではあり得ない流れに興奮しました。




M.Oさん
今度はバッハからバルトークへ。しかも内省的な嬰ハ短調の三重フーガから先鋭的な前進性のリズムのパレードであるオスティナート。これもまた、気持ちの切り替えが難しいのではと思わせる組み合わせでした。作曲年代を調べて見れば、バッハの平均律第一巻が1720~1722年、バルトークのミクロコスモスが1926~1939年。200年の時を一気にジャンプしたと言う事になります。嬰ハ短調の前奏曲とフーガですが、M.Oさんは、重苦しくならないように留意しつつ一歩一歩確実に進みます。この曲は非常に精神性の高い楽曲であるために、ついつい仰々しく深刻ぶって弾いてしまいがちですが、そこはそれなりの距離を置いて弾いてくれたので、大変に見通しの良い音楽を作ってくれました。素晴らしいです。さて、ここから怒涛のバルトークに入るのはやはり相当に難しかったのではと想像します。このオスティナートは、事実上、決まった拍子のない音楽です。リズムというのは、楽譜を見てどうにかなるものでなく、やはり予め自分の体の中に内在していないとそれを音楽に生かす事は難しいでしょう。特に、続々とリズムが変容するこのオスティナートのような音楽の場合、「バルトークエンジン」のようなものを体内で予め暖気運転しておく事で、変幻する鋭いリズムに音楽としてシンクロできるような気がします。バルトークの作品は、極めて綿密な書法で作曲されています。しかし、同時に演奏者に内在するリズム感覚に基づく即興的、すなわち一触即発的な緊迫感が欲しいというのが、バルトーク好きの私の期待するとところなのです。そういう意味では、M.Oさんの演奏は少々慎重だったように感じましたが、やはりバッハの後ですから、なかなかノッて弾くのは困難だったと思います。まあ、私の個人的な贅沢な望みではあるのですが。客観的に見れば、演奏は充分に模範的なもので、やはりバッハの後にきちんと弾ききったのは凄い精神力と思います。




♠ユングさん
久々に昔のユング節を聴けたような気がします。「いいと思った曲は、どんな障害があっても力ずくでもなんでも、とにかく弾く!」という強靭な意志が充満した熱演でした。学生時代の演奏会では、毎回こんな雰囲気でした。少年漫画のようなスポ根物語ピアノ版を本気で演奏会で発露するというのがユングさんの学生時代のスタイルだったのです。それが年齢を重ねることで、楽曲への柔らかな眼差しというものを演奏から感じられるようになりました。今回も抒情組曲「ゆりかごの歌」では存分にその暖かさというものが放射されていたと思います。ここまでしみじみとした味わい深い音楽はそうそう聴く事はできないでしょう。さて、続いてホルベア組曲の前奏曲です。プログラムには序曲とありましたが、バロック様式の組曲なので、一般的には前奏曲がいいでしょう。ユングさんの演奏ですが、「ここまで壮大な前奏曲にするのか」というのが第一印象です。バロック組曲風に作曲されたホルベルク組曲となれば、前奏曲は個人的にはもっと「理知的で典雅な」イメージが元々あったのです。実際、オーケストラ版では弦楽器主体の室内楽的な編曲になっています(というか、正直、ピアノ版はあまり聴きなれていないという事もあります)。しかし、ユングさんの演奏では、明らかに金管楽器もパーカッションもばりばり入っている大編成のフルオーケストラバージョン。ともあれ、ユングさんの中では、そういうイメージの曲だったのだろうと思います。で、そのイメージする音楽を実現するために自ら持っている技能をすべて使い切るというその潔さが素晴らしいです。もう、そういう境地になれば、ユングさんから生まれいずる音楽の説得力は半端でなく、「この曲はこういう音楽である」と認めざるを得なくなるでしょう。




♠C.Gくん
これまた私の好みの音楽で嬉しい限りです。ラグタイムの拍の感覚というのは、分かる人は言わなくてもわかるし、分からない人にはどう説明してもわからない種類のものです。分からない人に理屈でいくら教えても、拍のずれたマーチにしかならない事が多い。ちょとした0.1秒くらいのズレというか間合いというか、なんというかそういうのが、ラグタイムの命だと思うのです。譜面通りに弾いてもなかなかラグタイムにはならない。知太郎君は言うまでもなく、元々こういう音楽の素が体の中にあるんでしょうね。最初の数小節でラグタイムの世界に聴き手を引き込みます。ジョプリンと言う人は、ラグタイムという様式を作った約100年前のアメリカ合衆国の黒人の作曲家です。彼が弾いていたピアノというのは、音色も限られていた音の薄いアップライトピアノがほとんどでした。当然、そのようなピアノの音を想定して曲を作っています。よって、彼の作品を大音量のでる多機能な現代のグランドピアノでガシガシ弾くというのは、本来の曲想からは徐々に外れてくる可能性があります。C.G君の演奏は、そういう点でも、非常に軽やかに、場末のさびれたアップライトピアノのような響きで弾いてくれました。これもまた、センスの問題なので、どこをどう弾けばいいと言葉では表現できない部分です。余談ながら、このジョプリンと後述するゴドフスキーはアメリカ合衆国で同じ時代に音楽活動をしていました。交流があったかどうかはともかく、同時代ならではの爛熟した音楽シーンの雰囲気には共通項があるよう
に思います。




M.Mさん
フォーレのバラード。これまた私の好きな曲の一つですが、この難曲にじっくりと取り組んでくれた事に感謝です。この曲は、その耳当たりの良さに反して、かなり手の込んだ作りになっています。よって、響きの美しさに寄りかかってセンチメンタルに弾きすぎると、曲としての見通しが曖昧になり、具が正体不明になってしまったシチューのような演奏になってしまいます。やはり、バラードですから、物語があり、物語があるということは、複数のモチーフがあり、そのモチーフがどのように展開してゆくのかを追ってゆく事がこの曲を楽しむコツです。結構、脇役も活躍しているので、聴くたびに発見のある曲です。M.Mさんの演奏は、それぞれのモチーフを多様な音色でキャラクター付けして、聴く人が迷子にならないように分かりやすく物語を展開しています。たぶん、初めてこの曲を聴いた人も何か情景のようなものが浮かんできたのではないでしょうか。その情景は、人それぞれでしょうが、音楽は何を想像してもいいので、そういう意味で聴き手に様々な想像を促す良い演奏だったと思います。惜しむらくは、音色にこだわるあまり、時々横の流れが途切れてしまった所くらいでしょうか。でも、それは曲をよく知っている人の感覚で、初めて聴く人にとっては、そっちの方がわかりやすかった側面もあるので、一概に悪いとも言えないように思います。




♠Y.Oくん
人間、そう簡単に変わらないものですね。久々に彼の超絶技巧を聴いたのですが、全く腕は衰えてなくて、初めて聴く人にとっては驚きの連続だったでしょうが、私の中では安定の「Y.Oくんパッション炸裂」で安心して聴いていられました。冒頭のバッハからして、曖昧な部分のいっさいない、すべてが前面に押しでくる演奏で、バロック時代の作曲家である事を忘れそうでした。

スクリャービンの練習曲も、隅から隅までここまで大音量で弾く人は、そうそういないです。言うまでもなく、これはメリハリのない大音量と言う意味でなく、ピアニッシモの音量が普通よりも大きいと言うことです。で、当然、相対的にフォルテッシモの音量は、もうそのピアノの限界の音量ということになります。彼の手にかかれば、このスクリャービンでさえも、すべての音が明晰に聴こえてくる。普通、この曲の場合、細かなパッセージは一つの音塊のように聴こえてしまうのですが、Y.Oくんの場合、一音一音独立して聴こえてきて、圧倒的な音圧で迫ってきます。これがこの曲の解釈として正解なのかはわかりませんが、聴く者を無条件で黙らせてしまう他に類を見ない強靭な演奏である事は間違いないでしょう。

そして仕上げは、ゴドフスキーのシュトラウスのワルツによる交響的変容。まず、普通のプロのピアニストは弾かない曲です(演奏会のプログラムにのせるピアニストは世界に10人といないでしょう)。なぜか?もう、いろいろな意味で超絶に演奏困難な曲で、まだまだゴドフスキーをゲテモノ扱いをしている聴衆も多い中で、あえて挑戦するのはリスクがあるからでしょう。原曲はヨハンシュトラウス二世のワルツ「酒、女、歌」。この原曲が作られた当時(1860年代)は、日本では明治維新、合衆国では南北戦争、そして欧州はオーストリア=ハンガリー帝国の時代。世界は動き始めて、新秩序が生まれつつあった落ち着かない時代でした。しかしゴドフスキーの生きた時代は、いずれは世界大戦と大恐慌へと向かう爛熟した20世紀初頭の退廃的な雰囲気が充満していました。すぐれたピアニストであったゴドフスキーは、半音階的和声進行と複雑に入り組んだ対位法そして過剰な装飾的パラフレーズを通してその時代の空気を最大限盛り込んだ、原曲からすればかなり肥大化した曲を作りました。基本、演奏会で弾くために作ったと思われます。こんな曲を作るゴドフスキーもゴドフスキーですが、それを弾くピアニストもピアニストです。しかし、百年後、極東の日本において、ゴドフスキーの編曲を嬉々として弾くアマチュアピアニストが多数出現するなどと、さすがに作曲者も予想しなかったことでしょう。百年の時を超えて、作曲者当人よりも技巧的にも音楽的にも完全な形で演奏できる一人として、Y.O君がいる訳です。ということで、曲を知らなくても、彼の演奏を聴けば、唖然とするしかないと思われますが、それも当然です。ある意味、こういった曲は、ロマン派ピアノ音楽が究極に飽和した状態で、もう何を聴いたらいいかわからない程に情報過密で、それを本当に弾ききってしまうのであれば、ただただ圧倒されるしかないのです。それはそれで、いいのではと思います。しかし、本当に容赦なく弾いてしまうからとんでもないですね。しかも、昔に比べると、余裕が出てきたというか、音楽が先走る感じがなくなって、壮大な巨匠的な演奏になっているのがもうたまらないです。Virtuosoと言うのは、まさに彼の事をさすのでしょう。




水本桂さん
バッハ、ヤナーチェク、ラフマニノフ。桂さん本人は、「弾きたい曲を並べただけ」と言ってはいましたが、本当に素晴らしい流れです。いつもそうですが、今年は特に完全にマイクロ・リサイタルの形になっていました。バッハに関しては重心の低い安定した演奏で、何も私から言う事はないのですが、多様な音色を弾き分けて、本当に各声部が色鉛筆で塗り分けられているように聴こえてくるのが凄いですね。しかも、その色鉛筆の太さが違う訳で、ピアノでバッハを表現するという一つの解答がここにあります。余談ながら、彼女は平均律の楽譜、バルトーク版を使っていたんですが「曲の順番が意味分からん」と言っていました。たしかに、調や曲のタイプで見ても、あの順番はよくわからないものでした。で、あとでバルトーク版に従って曲を並び替えて聴いていたら、なんだか難しいフーガが後になっている気がします。たぶん、あの順番は、演奏難易度じゃないですかね?違う?まあ、すべて楽勝で弾ける彼女には気付かない視点かもしれないですね。

続いてヤナーチェクです。演奏会はおろか、CDでも滅多に演奏される機会に恵まれないながらも、個人的には名曲中の名曲と思っています。本当に弾いていただきありがとうございます。これまでCD等で、鄙びた感じの「わびさび」な演奏を聴きなれていたのですが、彼女のあまりに激烈な演奏に度肝を抜かれました。そうか、こういう曲だったのか!と目から鱗です。つまりは、彼女の解説にあったように、この曲は「怒りの音楽」なのです。これまで、動乱で命を落とした朋友の追悼歌のような感じを持っていたのですが、調べて見れば、問題のデモの衝突(1905.10.1)が起きてすぐに作曲しているので、友が死ななければならない理由はあるのか?!という不条理に対する「怒りの音楽」、もっと言えば「抗議の音楽」なのですね。その事を十二分に実感できるような、濃縮した激情を放出するような演奏でした。執拗に繰り返されるオスティナート主題が、様々に変容して、怒りと哀しみに揺れるヤナーチェクの肉声を届けているようでした。初めて聴いた人も、こういうシリアスな音楽であると思っていいのではと思います。そして、ある意味、そういった怒りは、様々な形で現代にもあるはずで、そんな時に、この曲を思いだしてみるといいのかもしれません。

続いてラフマニノフ。チェロソナタ、ピアノソロバージョン。余計な装飾のないシンプルなこの編曲、素晴らしいです。もとからあるピアノ曲のよう。このような形でラフマニノフの中ではマイナーなチェロソナタを紹介してくださり、ありがとうございます。20世紀前半、ラフマニノフ以外でも、美しいメロディを作った作曲家は大勢いますが、なぜラフマニノフが圧倒的な知名度と人気を得ているのか。おそらくは、それはラフマニノフの音楽の基本姿勢が「憧憬」であるためだと個人的に思っています。すなわち彼の作品は「今ここにない何か」を求める音楽なのです。ラフマニノフ自身は、「憧憬」の対象は失われた故郷や家族だったでしょう。すなわち彼の望郷の念が世界中を魅了するメロディを作らせたのだろうと思います。別に望郷の念でなくとも、誰しも過去はもう戻ってこないし、未来もまだ来てない。人それぞれに「今ここにない何か」、すなわち失われたもの(若さ、青春、大事な人などなど)、まだ手に入らないものはあるはず。「今ここにない何か」を切望している人ならば、おそらくはこの桂さんの弾くラフマニノフの音楽が胸にしみいることでしょう。ラフマニノフの「憧憬」の想いが真剣であったが故に、単なるセンチメンタルな旋律に留まらない普遍性のある骨のある最後のロマンティックな音楽を彼は作れたんだろうと思います。原曲のチェロソナタを聴いた事がない人は、是非とも聴いてほしいです。やはりこの曲はチェロが入って、一つの憧憬の小宇宙を作っている気がするので。きっと、この曲の良さをさらに実感できると思います。




------ここまで------------------------




書かれている内容に思い当たる人も多いのではないでしょうか(笑)驚くほど広範囲の音楽についての知識をお持ちで、それを背景にロジカルにまとめつつ、しかも時折直観的でウィットに富んでいておもしろい。所感というには恐れ多いような気がしますが、大人になって、演奏にこうしてコメントをいただけるというのは稀有なことです。大平さん、これだけの長文を書かれるのは大変だったことと思います。本当にありがとうございます。今年もこのようなご感想をいただけたこと、なにより感謝に堪えません。遠いところお越しくださり、ありがとうございました。


5 件のコメント:

  1. ものすごい所感をありがとうございます。演奏に圧倒されることはありますが、所感に圧倒されると言うことはなかなかないような気がしますが、圧倒されました。Oさんの凝縮したエッセンスを感じます。

    私の学生時代、努力せずに弾きたいという思いだけが先に走ってしまうたちだったかなと思います。それを「スポ根」と前向きに表現してくださってありがとうございます。そういうところも含めて成長していないなあと反省ですが、自分の中ではやりきった感はあるので、演奏に悔いはありません。あのような演奏にまでコメントくださりとにかく感謝です。昔からみんなのことを本当によく観察してくださっていました。ありがとうございました。

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  2. 所感の第一弾を読んで、ひたすら感動し、第二弾で身に余る光栄な言葉をいただき、ありがとうございます。ご指摘のたとえ、非常にわかりやすく的を射ていると思います。第一楽章は、現時点での私の技術的な限界です。でも、その中で表現したい者はあり、強い意志ではありませんが、こうしたい、と言う思いをできるだけ実現するように練習してきました。1週間前にログでピアノを弾いて、家のアップライトと全然ちがって、絶望的な気持ちになりましたが、なんとかごまかしながらですが、精一杯と言った感じです。家内とも話していたのですが、今回止まってしまったり失敗したりしましたが、以前のような後悔は無く、妙に清々しい気分で終わりました。ちょっと次のステップに行けたのかもしれません。願わくば、また来年もよろしくお願いします。

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    1. このように思っていただきありがとうございます。書きたい事を書いているだけなので、いつも心の中では「こんなこと書いて大丈夫かな」と思うのですが、思ってもない事を書くと体調が悪くなるので、いつもユングさんの好意に甘えています。いつもこの集まりに関しては一期一会の心持で来ています。実際、子供たちは、会うたびに「違う存在」になっています。去年の彼ら・彼女たちはもういない、と寂しく思うと同時に、新しい人々と出会っているような新鮮な気持ちにもなります。多かれ少なかれ、それは子供でなくても同じです。ということで、そういった人達の作る音楽への感興はもう書かないではいられないのです。ほとんど自己満足なのですが、何か参考になることがあれば幸いです。

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  3. お見通しですね(笑)
    ネタバレをしてしまうと、初めはバッハ平均律(プレリュードとフーガ)を弾くつもりでした。しかし、このコンサートで自分がバッハを弾く意味があるのか考えてしまったのと、サティにハマりはじめてこれは10年に1度のハマり方だと確信してしまったのと、大きく2つ理由があってこのようなプログラムになりました。結果はお聴きのとおりです。今更ながら、サティかバッハのどちらかにしておくべきだったと反省しています。
    そしてこの曲順です。はじめ僕の案ではサティ&バッハは第一部ではなかったのですが、僕の演奏をきいて長男の前に配置した美保氏の最高のファインプレーだったと思います。僕の中では、これが一番のブラボーでした。

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    1. 曲順で本当にそれぞれの音楽の印象が変わりますからねえ。演奏会のプログラムも一つの作品だと思います。そういう点で今回の演奏会はいろいろ不測の自体があった結果、「即興的」になって音楽どうしの緊張感が生まれて良かったです。この演奏会は、様々な楽器以外の音や声があるので、サティは非常に馴染むだろうなと思っていたのですが、今年は、子供たちが静かになっていて、また違った雰囲気でした。

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