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「AFTERNOON PIANONNO(アフタヌーン・ピアノンノ)」は、平成4年の北大ピアノクラブ創設当初所属していた部員のうち、一部のOB/OG仲良しメンバーが集まって2010年からやり始めた、小さなサロンコンサートです。茨城で知り合った音楽を愛する仲間さんたちと一緒に年に1度集まり、なるたけお金をかけずに気軽に音楽を楽しもうという、ただそれだけを思って始めた、ささやかな集まりです。 ぼちぼち、ゆる~く、続けていこうと思っております。よろづ帳はこちら! ブログへのご意見・ご要望はこちらまで。

2017年8月9日水曜日

福島のOさん渾身の所感を寄せてくださいました!

福島は会津から今年のアフタヌーン・ピアノンノに来てくださったM.Oさんが、今年もまた渾身の所感を寄せてくださいました!

毎年、今年はどんな所感くださるだろう?と楽しみにしつつ、これ書くの相当エネルギー使っただろうなと、その苦労を思うと本当にありがたいことです。ありがたく読ませていただきます。






ここから==================================

 「音楽は人生である」といった場合、私の中では意味が二通りあって、一つは某音盤屋の「NO MUSIC, NO LIFE」のような「音楽なしには生きられない」という意味。これはわかる人には説明なしにわかるし、わからない人には言葉を尽くしても理解してもらえない事でしょう。そして、もう一つは「音楽の存在そのものが、人生に似ている」という意味。音楽も人生も「時間」という要素なしは成立しないので、音楽に関わると言うことは、多かれ少なかれ「人生のミニチュア」を仮想体験することになります。

 音楽を奏でたり聴いたりする時、曲の種類にもよるでしょうが、やはり何らかの「物語(ドラマ)」を感じることが多いのではないでしょうか。歌詞がつけばなおさらです。ただ、「物語」と言っても、必ずしも小説のようなくっきりした筋が見えるものばかりではありません。時間の経過とともに「変化」してゆく何かを感じとる事だって、無意識のうちに「物語」を自分の中で作ってしまっているものなのです。そして、日々の変化の中で生じる「言葉にならない物語」を未来へつなげながら自分の人生も作っているのではないでしょうか。言うまでもなく、頭で考える「人生設計(ライフプラン)」などというものは、概ねその通りには進まないもので、(外 部的にも、内面的にも)想定外の事が起こり、出発点からすると随分と違う場所に立っている事が多いものです。そして、過去の些細な出来事が、思わぬところでつながったりするのも生きていゆく中でしばしば経験することでしょう。


 今年のアフタヌーンピアノンノ、それぞれの演奏の素晴らしさもさることながら、演奏会全体を見渡してみると、この演奏会自体が4楽章構成の交響曲のような、まさに「人生そのもの」のように感じられ、思い返すたびに趣深い余韻を感じます。

 これはまずプログラム構成されたY.Oくんの設定した絶妙な曲順によるところが大きい。まさに演奏会全体が大きな物語になるように非常によく練られた(深く考えてなかったという噂もありますが)見事なものでした。その完璧とも言えるプログラムに、飛び入り参加がなんと6回も。その都度、Y.O君の鮮やかな采配で、まさに実際の人生のように想定外の出来事が様々な化学反応を誘導したのでした。そして、演奏会全体が実際の人生のように立ち現われたのは、言うまでもなくそれぞれの音楽が「生身の人間と共にそこに生きていた」からに他なりません。


 ということで、今年は個人個人の音楽の印象と言うよりも、演奏会全体の中でどんな位置づけだったかという、多少私の主観的(思い込みとも言う)視点あるいはこじつけな内容が多くなるかもしれません。なお、飛び入り参加者には*印をつけています。






1楽章 Allegro fresco (初々しく快活に)


M.Oくん 
ギロック(William L. Gillock) :アルゼンチン、ガボット
グローバー (David Carr Glover):くるみわり →終曲へ


 和音がきっちりと揃って前に出ていて、まさに演奏会冒頭を飾るにふさわしい明快な演奏でした。曲の性格分けもはっきりしていて清々しかったです。そして、「アルゼンチン」は、後に登場するピアソラのオブリヴィオンへ、「ガボット」はマリーの金婚式(実質的にガボットの曲ですへ)、そして「くるみわり」は言うまでもなくフィナーレのチャイコフスキー「くるみ割り人形」へとつながってゆきます。つまりは冒頭の三曲でこの演奏会の流れを暗示してしまっている訳ですね。




Y.Sさん
小森昭宏:矢車草のワルツ


 こういう第一人者が作るシンプルながら味わい深いメロディーのピアノの作品があるのはいいことですね。Y.Sさんも曲想をよくとらえて弾いていてとてもよかったです。小森昭宏と言えば、私の中では勇者ライディーンの人なのですが、人によっては「げんこつやまのたぬきさん」「いとまきのうた」の方がピンとくるかもしれません。世代は全く違えども、後の轟千尋さんの曲の幅広さに通じるものがあります。




N.M&ユング ご夫妻
ギロック:歩道のカフェテラス


 練習時間が取れなったと言いつつも、前回の演奏よりもテンポの揺れとその二人の駆け引きが絶妙で、やはり連弾と言うのは「阿吽の呼吸」だなあと益々痛感しました。ピアノで合わせなくても、普段の生活のリズムがにじみ出る演奏だったと思います。ワルツの三拍目のアクセントも非常に効果的でした。そして、阿吽の呼吸と言えば、後にTさん親子が再現してくれることになります。




H.Sさん
バイエル (Ferdinand Bayer):ピアノのおけいこ


 生演奏でこの曲を聴いたのはたぶん何十年ぶりなので、懐かしさと同時にその愛らしさについほっこりした気持ちになりました。同時に隣で聴いていた水本桂さんが「これやったなあ」としみじみしているのを見て、ある世代以上の日本のピアノ学習者にとっては血の一部みたいなものかもとも思ったりしました。習っている当時は古典派時代の人かなとなんとなく感じていたのですが、このバイエルと言う人、なんと次に続くショパンとほぼ同時代人である事を大人になってから知った時の衝撃はなかなかのものでした。




K.Sさん
ショパン (Fryderyk Franciszek Chopin):ノクターン20番 嬰ハ短調 遺作


 ということで、第1部(第1楽章)の「要」とも言える、K.Sさんの安定のショパン。感傷的過ぎず、かといって尖った解釈でもなく、ほっと一息つけるようなショパンでした。人生に絶対はないとは言え、すべてが不確定だとやはり困ってしまいます。やはり、K.Sさん的などこか安心できる「島」のような存在は必要だと改めて思いました。なお、このノクターン、バイエルの教則本が出版される20年も前に作られた作品です。ショパンがいかに当時の最先端(というか未来)であったかがわかります。

 音楽と関係ないですが、K.Sさん自作のマドレーヌはいつも絶品で、今年はあの熊クッキーも凄かったです。形を崩さずによくああいう風に焼き上げられるものだなと感嘆しました。普通に焼けば想定以上に膨らみ肥満体になるのが常だと思うので。いつも、ありがとうございます。ごちそうさま。





K.Mくん 
アメリカ民謡:雪山賛歌 (エレキギター弾き語り)


 いきなりエレキギター弾き始めたので驚きました。ユングさんが「コード2つしかない」と卑下していましたが、それを言ったら私の曲もコードは二つしかない訳で(というか雪山賛歌のコード3つ必要なような気がしないでもない)。この曲、個人的には「荒野の決闘の主題歌」か「むさくるしい大学山岳部」のイメージしかなかったので、K.Mくんの淡々とした熱唱(矛盾した言い方ですが)が物凄く新鮮でした。

 荒野の決闘の主題歌(というかアメリカ民謡)がなぜ日本で雪山賛歌になったのかと言えば、戦前の京大山岳部の人が山小屋で足止めをくらっている時に暇つぶしに山岳部らしい歌詞をつけたと言われています。第2部の最後に歌われる「都ぞ弥生」も、成立過程は多少違うものの、学生が作詞作曲したと言う事では共通で、ある集団の連帯感をたかめるために昔は歌が自然発生的に作られていた事が実感できます。




M.Kさん
久石譲:海の見える街 「魔女の宅急便」より


 毎年、久石譲ジブリ作品が登場する訳ですが、有名な曲もそうでない曲も本当にうまく作られた曲たちだなあと最近、改めて思う事が多くなりました。この「海の見える街」も何気ないメロディーなのですが、右手と左手とで密かにカノン風の呼応があったり、音型の鏡像があったりと結構凝った作りになっています。でも、そんな面倒な事を考えなくても、M.Kさんのように素直に弾くだけで楽しく音楽ができるようになっているのは、凄いです。ということで、M.Kさんの演奏、この作品の良さを改めて実感できるものでした。ありがとうございます。で、カノンと言えばパッヘルベル。で、次に続きます。






S.Iさん
パッヘルベル (Johann Pachelbel):カノン


 「音楽を聴く際に音楽以外のエピソードを頭に入れない方が先入観なしに音楽そのものに没頭できる」と私は感じる事が多いのですが、S.Iさんの「この曲を自分で弾きたい」と思うに至った合衆国時代のエピソードは、やはり今回の演奏を聴くにあたって納得の内容のように思いました。多くは語られなかったけれども、「いつかは正式な楽譜で満足のゆく演奏ができるようになりたい」という一言からも、この曲がS.Iさんの人生のかなり重要な位置を占めているように感じました。と言う事で「こういう音楽にしたい」という方向性のはっきりした未来志向の演奏だったと思います。いろいろと積み上げてゆくのにこの曲ほどそういった目標に適した作品 もないでしょう。これからどのように変わってゆくのか楽しみです。

 そして、バッソオスティナート(同じパターンで繰り返される低音部の音型)に装飾されるこの曲の構成は、曲調こそ違うものの、飛び入りのK.TくんのBlackStoneへとつながってゆきます。




K.Mさん
ハチャトゥリアン (Aram Il’itch Khachaturian):昔のお話 「少年時代の画集」より


 「昔のお話」という題名の印象と実際の音楽の印象とが少々食い違った人も多いのではと思います。原題は「Legend」で素直に訳せば「伝説」です。伝説と聞けば、何か神秘的な情景が浮かんできて、少し納得できるのではないでしょうか。K.Mさん自身のコメントもなかなか示唆に富んでいて、「いつの間にか大人になったなあ」と感慨深く思った人もいたかもしれませんが、彼女ももう十代中盤にさしかかっている訳で自分の内面を言葉にする事もできるようになっても不思議ではありません。というか、内面世界が広がるような経験を(主に学校生活で)日々様々に重ねているのかなと想像しました。そう言いう訳で、K.Mさんの演奏は去年とは全く違い、音を出す 喜びから音でイメージする段階に入っているように感じました。そして、その初々しい感性は次の飛び入り演奏者へとつながります。




*K.Tくん
クラーク (Chris Clark):Black Stone
加藤浩義:Eternity 「消滅都市」から


 Eternityの方の作曲者・出典はあくまで冒頭のコード進行からの個人的な推測です。間違っていたら申し訳なし。演奏者本人に尋ねたところ、どちらも耳コピだそうです。というか、耳コピという言い方は矮小化している気もするので「譜面に依らない彼自身による音の伝承」と言った方がいいかもしれません。K.Tくんの内面に最も寄り添った音楽が外から入って来て、それが彼の中で再構成されて、彼自身の手から再び外へ溢れ出たものと想像します。この前に演奏された「昔のお話(伝説)」と通じるものがあります。彼自身の内面と奏でられる音楽はおそらくは完全にシンクロしているので、内面のゆらぎがあると演奏自体も揺らぐのかなあと憶測しました 。彼自身から湧き出ずる感興の瞬間に音楽が生まれると言う意味で、非常にスリリングで彼の今の年齢だからこそ立ち現われてくる「絵になる」音楽でした。

 なお、どちらも定められたコード進行を繰り返してゆくという構成ですので、後のフィリップ・グラスの「オープニング」へとつながってゆく楽曲でもありました。コード進行も現代的でグラスと多少似たところがあります。




*A.Jさん
杉本竜一:BELIEVE (ピアノ伴奏・合唱)


 さらに飛び入りで合唱できる曲が入ったのが非常によかったです。さっと伴奏できる人の登場がいいですねえ。第1部を締めくくるのにも実はぴったりであるというのは、Y.O君の采配のなせる技でしょうか。卒業式シーズンや校内合唱コンクールでよく歌われる曲ではありますが「皆で歌える曲」が減っている昨今、貴重な作品です。そして、歌詞を深読みすると(あまりに妄想が激しいかもしれませんが)、後でJunちゃんがやる「ラブソングはとまらないよ」の歌詞内容にそって思いきって告白して失恋してしまって、そんな傷心な人への応援ソング(しかも、それまで意識してなかった人からの)とも解釈できます。人生、楽ありゃ苦もあるさ。







2楽章 Comodo capriccioso(気楽に気まぐれに)


I.Kさん
ショパン:前奏曲 作品28‐15 「雨だれ」


 「最初のキーを忘れる」というのは絶対音感のない人には共通の恐怖で、弾き始めて「あれ?」となって、音色で弾きこんだ作品であるほどに混乱してしまうものです。と言う話を絶対音感のある人に話したら「絶対音感があっても最初のキーを間違えればパニックになるのは同じ」と言われて、わかったようなわからないような気分になりました。熟練したピアニストにもなると、どんな曲でもすべての調に移調して咄嗟に弾けるそうで、そこまでいくと脳と指にAIを仕込んでいるとしか思えません。

 とはいえ、最初の躓きを過ぎれば、やはり時間をかけて弾きこんだI.Kさんの佇まいの演奏として落ち着いて堪能できました。やはり中間部のバスの響かせ方が独特でいいです。そして、ひっそりと消え入るような終わり方も大人な感じでした。

 さて「最初のキーを忘れる」のでなく「最初のキーの場所がずれる」と言う現象が起こりうる事を私はこの演奏会で知りました。それは後で飛び入り再登場するS.Iさんが語ることになります。




M.Kさん
久石譲:君を乗せて 「天空の城ラピュタ」から


 「とにかくピアノで表現させて」という想いが溢れた非常に素直で綺麗な演奏でした。その姿勢は本番の演奏以外の時でもずっと維持されているので、大したものだなあと思いました。予定されていた歌が諸般の事情により急遽なくなった事もあり、余計に表現欲がわき上がったのでしょうか。せっかくですから、もう一つくらい、想いを伝える音楽があった方がよかったかもしれませんね。

 なお、久石譲は実はミニマリズムの作曲家でもあります。ミニマリズムが何かは後のグラスのところで。




*NANA.Tさん
シューベルト (Franz Peter Schubert):即興曲 作品142-3


 ダブルNANAさん、急遽デュオ・リサイタルが挿入された感じで、曲の組み合わせも非常に自然な流れでした。まずはN.TさんのOp142-3。即興曲と言いつつ実質的には変奏曲な曲ですが、それこそ「即興風」の変奏の性格分けが案外と難しく、バリバリと直球で弾き続けると耳にもたれる演奏になりがちです。その辺、NANAさんは非常に巧みなバランスで各変奏のキャラを弾き分けて曲全体を構成していました。意識したのか分かりませんが、コーダのやや溜め気味のリタルダンドも次に控える演奏会用アレグロにつなげる上で効果的だと思いました。




*NANA.Kさん
グラナドス (Enrique Granados:演奏会用アレグロ 


 変ロ長調から一気に嬰ハ長調へ!この曲、挑戦する人は結構いるのですが、ここまで明晰に曇りなく弾ききるのは容易ではありません。しかも単純な超絶技巧な曲ではなく、ショパンの要素を多分に含みつつ、ドビュッシーへの橋渡し的な斬新な和声も含み、さらには民族色も入って明快さと複雑さが同居したようなモザイクタイルのような様相を持つ難曲です(反面、譜面の指示通りにちゃんと弾けば最大限の演奏効果が出るように音響設計されています)。最後の、チャイコフスキーのくるみ割り人形のピアノ編曲もまた正式名称は「演奏会用組曲」。つまりは、演奏会用アレグロと似た目的を持った曲なのです。

 ともあれ、ここで一旦休憩としてもよいくらいのダブルNANAさんの熱演でした。
 思い返してみれば、二人は、曲の内容からしても水本桂さんのフィナーレを予感させるうえで効果的かつ刺激的な飛び入り参加だったと思います。




S.Mさん
轟千尋:雨上がりの朝


 曲の性質もあるのかもしれませんが、いつも以上に癒される演奏でした。音色がより優しくなった気がします。先に登場した小森昭宏とは違った抒情性があり、かつ近代的な部分もあるいい曲ですね。ユング家のYくんが演奏会不在となった今回の演奏会、S.Mさんにはできればピアノ続けていってほしいです。というか、Yくん、マイクラばかりやってないで、どういう形でもいいので来年は演奏会に復活してください。




M.Oさん
ショパン:即興曲 作品29 →交響的練習曲と同時期
シューマン (Robert Alexander Schumann):作品68-13 愛しい5月よ  「ユーゲントアルバム」より 
シューマン(リスト編曲):献呈 


 今年はなかなかに渋い選曲でした。それぞれの曲の持ち味を落ち着いて表現していて、3部の後半へ続くロマン派の王道を明確に提示してくれたと思います。ショパンの即興曲1番は、パッセージこそ即興的に聞こえますが、ほぼ小規模なソナタ形式を見てもおかしくないくらいに構成は非常にきっちりしていて即興とは全く名ばかりの作品ですが、雰囲気に流れることなくしっかりと形式感を維持しながら弾いていました。さすがですね。シューマンの方が楽想の気ままさから「即興的」と言えるかもしれません。ユーゲントアルバムの5月はややゆったりしたテンポでシューマンの春の喜びを上手く表現していたと思います。ただし、リスト編曲の献呈となると 、いつものM.Oさんのダイナミックさが出てきて聴きごたえがありました。

 なお、演奏会当日の7月29日はなんとシューマンの命日です。「だから何」と言われそうですが、今回はシューマンの曲が三つもあって、ある種の縁を感じます。そして、ショパンの即興曲1番が作られた頃、シューマンはクララと出会い結婚への道程を歩み始めた時で、後に演奏される交響的練習曲もその頃に作られています。さらには、「献呈」はリッケルトの詩ではあるものの歌詞内容は実質的にクララへ向けたものである事は明らかで、シューマンは「ラブソングがとまらないよ」状態だったことが伺えます。さらにいうと、ユーゲントアルバムはシューマンの長女のマリー7歳の誕生日のために作られ、結果的に何人もいた子どもたちの教材となったで しょう。そして、娘の一人、三女ユーリエはブラームスから想いを寄せられる事になります。




M.O
フィリップ・グラス (Philipe Glass):オープニング
M.O:間奏曲


 今回、ほぼ18年ぶりにピアノ演奏を再開した訳ですが「昔取った杵柄」という諺が全く当てにならない事を実感しています。まあ元々「貧しい杵柄」しかなかったという話もあり、「年寄りの冷や水」のリアリティをかみしめる日々です。元々、北大ピアノクラブの頃は私が最年長者であり、北大ピアノクラブ出身者の中では今でも私が最年長者な訳ですが、「年長者がこんな体たらくでいいのか」というご批判もありましょうが「年の功」ということでご了承願いたいと思います。実際、昔に比べると「演奏の誤魔化し方」が上手くなったような気がして、年の功の実情を微かに感じているところです。

 グラスのオープニングですが、「いったいいつ曲が始まるのか」と思った人も多かったでしょう。でも、お聴きになった通り、これが延々と続く曲なのです。このように同じフレーズが繰り返し続いていく音楽様式を「ミニマリズム」と言います。そして、グラスは現代アメリカを代表するミニマリズムの体現者です(本人は、既に「私はミニマリストではない」と言っていますが)。けんとくんの弾いた「BlackStone」も実質的にはその流れに入るかと思います。そして、先に書いたように、久石譲も商業音楽以外ではミニマリズムに回帰した作品を作っています。

 間奏曲は初めて記譜した旋律に二つの分散和音(A♭majorとD#minor)をつけただけの断片です。そして、旋律がドリアンスケール(E♭‐F‐G♭‐A♭‐B♭‐C‐D♭‐E♭’)から外れなければこの二つの和音でいくらでも続けられると言う、ある種の誘眠効果の高い様式となっています。

 なお、フィリップ・グラスは合衆国の音楽学校を出た後フランスへ留学し、ナディア・ブーランジェという名教師に作曲を師事します。そして、グラスがパリに留学する数年前、それなり歳を食った男がナディア・ブーランジェの門をたたきました。アルゼンチンからやって来たその男の名前は、後に「タンゴの革新者」とも呼ばれるアストル・ピアソラです。




I.K&S.Kご夫妻
ピアソラ(山本京子編曲)(Astor Piazzolla):オブリヴィオン


 個人的に非常に好きな曲なので、お二人の演奏を楽しみにしていました。きっちりとしたミロンガのリズムと切々と歌う旋律が見事に融合し、連弾の良さが出ていて素晴らしかったです。旋律だけ単純に追うと、まるで昼メロのテーマみたいなのですが、抑制された溜めとミロンガ特有の3:3:2のリズム分割が深い味わいを醸してゆきます。

 もともとは「エンリコ4世」と言う「自分が王様であるという妄想にとりつかれた男の物語」の映画音楽なのですが、名曲すぎるのでオブリヴィオン単独で演奏される事が多いですね。オブリヴィオンは「忘却」という意味で、何を忘却しているかと言えば、映画においては「妄想男の本来の自分」ということです。妄想男本人は忘れている事に気付かないので、つまりは「周囲がその妄想男の妄想に付き合いつつ彼を憐れむ」という結構屈折したトーンの音楽なのです。そんな男も、本来の自分、原点を思い出させる「音楽」を持っていれば、救われたかもしれません。例えば、悩みも多い熱き青春時代に皆で歌った「寮歌」のようなものがあったら、どうだった でしょう。ということで、次に続きます。




S.M&ユング&*Junちゃん
赤木顕次・作曲、横山芳介・作詞 北海道大学恵迪寮歌「都ぞ弥生」


 ハーモニカ2つ、ピアノ伴奏、そして合唱。蛮カラなガナリ声で聴く事の多かったこの「都ぞ弥生」をこうも抒情的に感慨深く聴く時がくるとは全く想像していませんでした。これもまた、ユング家の縁ですね。

 ハーモニカは大音量がでない分、細やかな心情をストレートに出しやすい楽器と思うのですが、それが本当にこの歌に合っていました。さらには、当日即興とは思えないJunちゃんのピアノ伴奏もいい塩梅の節度を維持して、情緒に溺れてグダグダになりがちな寮歌をそっと引き締めておりました。

 歌詞も改めて読むと信じがたいくらいに名作です。当時の学生の素養の深さと並はずれた才能にただ感嘆です。この寮歌が作られたのは100年以上前。ドビュッシーの前奏曲第二巻が出版された頃です。日本が国際社会の中でどう伍してゆくかまだまだ未知数な時代。いずれは国の方向をかじ取りすることを期待されていた当時の青年たちが、都から未開の大地に降り立った時の想いはどのようなものだったでしょうか。残念ながら、現代の私たちにとっては、その時の彼らの「本当の心情」というものは、とうの昔に「忘却(オブリヴィオン)」されたものでしょう。しかし、こうして「音楽」としてその「彼らの想いの残渣」は保存されているのだなあとしみ じみ思いました。






3楽章 Moderato devote (程良い速さで祈りを込めて)


Y.Oくん
フランク (Cesar Franck):前奏曲 Op18 「前奏曲とフーガ、変奏曲」 


 この曲、Y.Oくんのように平常心を維持して弾く人はまずいないので、非常に心地よい響きを味わせてもらいました。曲想がいかにも雰囲気に耽溺することを誘導する種類のものなので(ワーグナー信者のフランクは結構、そう言うのが多い)、原曲のオルガンの明瞭な響きを想起させる演奏はなかなかないのです。もちろん、耽美的なピアノ演奏も悪くはないのですが、こうした高原のそよ風のような清澄な演奏もいいのです。

 なお、フランクが会長を務めていたフランスの国民音楽協会の演奏会の指揮者を務めていたのが、後に登場する「金婚式」のガブリエル・マリーです。


*Junちゃん
水野良樹(作詞作曲・北原潤郎編曲):ラブソングはとまらないよ


 会場に現れた時は「ピアノ全然弾いてないし、飛び入りなんて、、」と言っていたJunちゃんですが、都ぞ弥生の伴奏を急遽依頼された流れとして「弾きたい」気持ちが芽吹いたのでしょうか。Junちゃん単独での演奏になりました。この曲、今回の私の妄想ではBLIEVEの前日譚。気になる相手にまだ告白してない脳内完結の時期の歌です。それにしても、普段は全くピアノを弾いてない生活で、よく即興でこれだけ曲としてまとめる事ができるものだなあと改めて感心しました。同時に私のような年寄りにはこの曲の歌詞がけっこう青々しくて気恥かしいので、そういう意味でもJunちゃんの剛毅な所は未だに健在だなと思いました。




A.Oくん
ヴィヴァルディ (Antonio Lucio Vivaldi):ヴァイオリン協奏曲 イ短調 RV356


 簡易版かと思っていたら、あれよあれよという間に、ほぼ原曲通りに堂々と一楽章すべて弾いてしまってびっくりでした。これだけまとまった楽曲になると、ぼんやりとでも自分なりのドラマ作らないと曲としてまとまらない訳ですが、そういった点で聴いても非常に説得力のある生命力あふれる演奏でした。今後さらに研鑽を積んでいくとどこまでいくのか非常に楽しみです。そして、A.Oくんの演奏が楷書のような端正な演奏だとすれば、後に登場するア―ロンくんは草書体のような変幻自在なスタイルで新くんと対をなすことになります。




*S.Iさん
ウイナー (Joseph Eastburn Winner):茶色の小瓶 


 「音楽を聴く際に音楽以外のエピソードを頭に入れない方が先入観なしに音楽そのものに没頭できる」と私は感じる事が多いのですが、先の「カノン」のようにエピソードによって演奏への理解が深まる事もあります。しかし、やはり「座る位置がずれたので弾く鍵盤の位置もずれた」のエピソードがあまりに強烈すぎて、演奏を聴くにあたって「リベンジなるか!」と非常に緊張してしまいました。最初の一音の鋭角的な響きも、その緊張をさらに増強させるのに十分なインパクトがありました。が、曲が進むにつれ、音楽そのものは完全にS.Iさんの自家薬籠中なものになっているとわかってきました。お見事です。カノンの方も、いっそのことジャズバージョ ンの編曲も挑戦してみる価値があるのではないかなとも思いました。




N.T&*K.T親子
アンジェラ・アキ:手紙


 前にN.Tさんの熱唱で「手紙」聴いた時は歌詞も含めて「息子さんの事を本当に想っているんだなあ」と感動した訳ですが、今回は途中からそのK.Tくん本人が加わってサプライズでした。K.Tくんのその登場の仕方があまりに、本当にあまりに自然で、さらには曲の進行にあわせた立ち位置の変化や表情の変え方など「ミュージカルかよ!」と心の中でつっこんでしまいました。いやあ、いいものを見せてもらいました。眼福とはこのことであります。

 そして、この二人の熱唱デュオは、まさに演奏会のフィナーレを飾るチャイコフスキーのくるみ割り人形のクライマックスのパ・ド・デゥ(Pas de deux)を彷彿とさせるものでした。そして、手紙は何も母から息子ばかりのものでもありせん。例えば、ブラームスからクララ・シューマンへの音の手紙が次の曲になります。




ユングさん
ブラームス (Johannes Brahms):間奏曲 作品117-1 


 すでにユングさんのテーマ曲であると同時に、ユングさんの人生の軌跡が刻みこまれた作品となりつつあります。6年前に聴いた時、震災直後だったこともあり、音信の途絶えていたそれぞれの人生を感じました。そして、歳月が流れ、小さかった子供たちがいつのまにか声変わりし、今年もまた6年前とは違った趣のブラームスとなりました。きっと、また時間が経ってみるとまた違った境地に至り、さらなる深みを湛えた演奏になることでしょう。

 ブラームスの後期のピアノ作品は年老いたクララ・シューマンへの彼の個人的な想いを音に託したものです。これは妄想でなく、実際にブラームスは彼女に曲を送り、クララも頻繁にこの曲集を演奏し、曲についてのコメントの入ったかなりの数の書簡も残っています。つまりは、ブラームスにとっては後期のピアノ作品はクララへの音の手紙だった事は間違いありません。




M.Mさん
シューマン:交響的練習曲 作品13 より抜粋 


 「よくもまあこれだけ壮大な曲を弾くものだ」と演奏を聴く前から感嘆し、そしてその実際の演奏は実直かつ端正で、難曲である事を意識させない自然体な音楽が響きわたった素晴らしいものでした。抜粋と言え、重要な変奏はほぼ入れており、最終変奏を聴き終わった直後は、「本当によく弾き切ったなあ」と非常に充足した気持ちになりました。変奏ごとの各声部の処理などは相変わらずうまいですね。

 この曲は主題こそ昔の恋人由来でありますが、シューマンのクララへの想いが確かなものになる中で、やはり当時の天才ピアニストであるクララに弾いてもらう事を想定して極めて充足した革新的な内容(言い方を変えれば弾くのが大変)へと発展させてゆきました。この超難曲、クララだからこそ弾けたという側面もあり、まさにシューマンからクララへの挑戦状と言う事もできます。同じ変奏曲でも、シューベルトの即興曲Op132-3の変奏からすると隔絶の感がありますね。これこそまさにロマン派ど真ん中の作品です。






4楽章 Andante gran gusto (大らかな味わいで豊かにゆったりと)



水本ア―ロンくん
マリー (Jean Gabriel Marie):金婚式
クレバノフ (Herman Clebanoff):百万長者のホーダウン


 サッカー選手の子供時代の話などを聞くと、寝る時まで肌身離さずずっとサッカーボールと過ごしていて、ボールが身体の一部みたいになるような事が良く語られます。ア―ロン君の場合、それのヴァイオリン版と言う印象を受けました。ヴァイオリンがずっと側にあるかはわかりませんが、既にヴァイオリンと音楽が自分の身体の一部になっている感じです。曲がどうこう以前に、さっといつでもどういう形であっても自分の音楽を取りだせる。無論、テクニカルな障壁はまだまだあるでしょうが、彼の音楽に対する自在さはずば抜けていて、「いかようにも表現いたしますよ」と言う余裕さえ感じさせます。

 マリーの金婚式、しばしばヴァイオリンの発表会で聴かれる曲ではありますが、ア―ロンくんのような饒舌な演奏にはなかなか出合えません。さらにはクレバノフの百万長者のホーダウン、いわゆる合衆国のカントリーミュージックな訳で、かっちりと機械的に弾いても様にならない作品です。ア―ロン君、当然そこは思いきり即興性を全開にして桂さんの伴奏を振り切りつつ伸縮自在に曲を最後のオチに向けて盛り上げてゆきました。ほとんど「大草原の小さな家」の「父さんのヴァリオリン」のノリでしたね。というか、ア―ロン君、もう既に立派な音楽家の顔になっていました。

 なお、作曲者のクレバノフはギロックと生年が同じ。そして、二人とも今年が生誕百周年。さらには、二人は茶色の小瓶のウイナーとちょうど入れ替わりの世代でもあり、三人ともアメリカ合衆国の作曲家です。




水本桂さん
シューベルト:即興曲 作品90-3
ドビュッシー (Claude Achille Debussy):月の光 ベルガマスク組曲より
チャイコフスキー (Peter Ilyich Tchaikovsky) (プレトニョフ編曲):アンダンテ・マエストーソ バレエ音楽 「くるみ割り人形」より


 室内楽をより多くやるようになったせいなのか、音を凝縮させてゆくような切り詰まった桂さんの従来の演奏スタイルは徐々に影をひそめているように感じました。その変化を言葉にするのは難しいものの、あえて言うなら「音楽がダイレクトに刺さって来るのでなく、遠赤外線のように空間に広がってゆく音像の感覚」といってわかるでしょうか。何を言ってるのかわかりませんね。自分で書いててわかりません。すいません。ともあれ、以前とは変わっていると言いたい訳です。

たまたまそう言う風に感じる曲目なのかなとも思いましたが、どうもそれだけではないようです。例えば、私個人の感覚では、ピアノ音楽におけるシューベルトほど捉えどころのない作曲家はいなくて「合奏する楽器が揃わないから、ピアノに押し込めただけだろう」という作品が結構あるように感じています。即興曲Op90-3もその有力候補の一つで、終始続くアルペジオは基本、弦の持続音の代行ではないかと疑いたくもなります。実際、この曲、ピアノで平板に弾くと結構退屈します。かといってドラマチックに強弱をつけて弾けばいいっていうものでもなくて、やはり音色の重層化を丁寧にやっていかないとこの曲の本当の良さは出て来ないように思う訳です( あくまで個人の感想です)。で、今回の桂さんの演奏、本来であれば聴こえて来ないような声部がなんとなく遠くから聴こえてくるような錯覚を引き起こす、不思議な演奏でした。そういった感覚はこれまでの彼女の演奏では聴かれなかったものです。前は、もっとスパッと人の心に切りこんでくるというか、そんな感じだったのです。

 ドビュッシーの月の光についても桂さんの演奏によって「こういう曲だったのか!」と改めて視界が開けた人も多かったのではないでしょうか。単に音色が綺麗とか、完璧なテクニックで曖昧さが無いとか、そう言う事でなくてもっと違う次元でこれまで聴いた事のないような音像が幾重にも会場に満たされたと思います。以前であればもう少し明晰な部分を残してくっきりした演奏スタイルだったと思うのですが(そもそもドビュッシーを弾いてなかったと思いますが)、誤解を恐れずに言えば、今回は小編成のオーケストラが合奏しているような響きがイメージとして立ち上って来るようでした。独奏なのに独奏ではないのです。

 そして最後のチャイコフスキー=プレトニョフのくるみ割り人形。この編曲はまさに桂さんのためにあるようなものですね。この編曲、テクニックに任せてガチャガチャ弾いても駄目で、やはり辛抱強く長いブレスの歌をつなげ、全体の中の情感のピークを息切れすることなく保持する「精神的な体力」が必要な作品です。プレトニョフの編曲が良く出来ている事もあって、桂さんの演奏中のテンションくらいになると、自然とピアノからフルオーケストラの音色が空耳で聴こえてきます。

 桂さんは「皆の演奏を聴く事で新鮮な気持ちで音楽の力を吸収できる。最後にその皆の想いを自分の演奏で昇華させたい」という風な事を言っていましたが、フィナーレを飾るこのチャイコフスキーほど、桂さんのその熱い想いを体現するものはなかったのではないでしょうか。まさに演奏会の大団円。「有終の美を飾る」という言葉がこれほどぴったりくる演奏もなかったと思います。







以上、妄想、こじつけを多分に含んだ、極めて充足した今年のアフタヌーンピアノンノの感想でした。


ここまで==========================================


音楽への深い造詣と演奏者へのあたたかな眼差しにあふれた、読んでいるとやる気が出てくる、本当に素敵な所感です。本当にこれ書くの大変だったと思います。感謝しかありません。M.Oさん、ありがとうございます!!





15 件のコメント:

  1. 今年も楽しみにしてました。本当にありがとうございます。
    知識と想像力が豊かだと、こんなにも一曲一曲がつながるんだなと、感嘆しました。
    毎回このような素晴しい所感を読むことで、演奏会をより深く味わわせていただいています。また母親としては子供達の貴重な成長の記録でもあります。
    あいかわらず息子はマイクラ漬けで、毎日いい加減にしなさい!と叱っていますが、来年は何か弾かせたいと思います。
    来年もどうぞよろしくお願いします。

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    1. コメントありがとうございます。マイクラはゲームの中では良質なものと思いますが、まあ程度問題というかバランスと思います。ところで、「マイクラ漬け」って、何かの漬けものみたいですね。

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  2. Y.O in Kita-Senju2017年8月11日 22:04

    いつも所感を楽しみにしています。今回もありがとうございます。
    プログラムの曲順決めの一部を担当したものとして、とてもうれしいです。

    長文になりますが、コメントします。

    終わったことなので暴露してしまいますが・・
    今回のプログラムの大方針は「飛び入りに柔軟に対応できるプログラムにする」ことでした。
    これは去年曲順を決めたM.O氏に「けっこう飛び入りがある」と聞いていたからです。
    これはこの演奏会のいいところであり、一番大事なところだと思いました。
    なので、ガチガチに固定せずにどこに飛び入りがあってもいいように曲順を決めようと思いました。
    (けんとくん、NANA.TさんとK.Tさんの飛び入りがありそうと聞いていましたし。)
    その中で決めたことは・・・下記2点です。

    (1)
    K.Sさん(ショパン演奏)に1部のまとめ役になってもらう(勝手ながら…今まで聴かせてもらった安定感から適任かと思いました)
    (2)
    3、4部のユングさん(ブラームス演奏)→M.Mさん(シューマン演奏)→桂さんの流れと
    A.Oさん(バイオリン)→アーロンさん(バイオリン)の流れを同居させて、2世代融合をはかる(誇大妄想)

    あとは、フィーリングです(笑)
    いずれにしても曲順含めて、この演奏会はみんなが作りあげたものだと思っています。

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  3. いやあ、さすがですねえ。世代間の融合はこの演奏会の醍醐味ですよね。それにしても、震災経験者としては、実際の生活もある程度の想定外に対応できるようにしておくのがいいと思う今日この頃。

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  4. M.Oさん、いつも所感をありがとうございます。毎年妻と二人で楽しみにしています。

    プログラム構成、そういう構想があったとは。

    以前に飛び入りがあったときには司会の私がなんも考えんとテキトーに順番決めたんですが、今回はY.Oさんが組んだプログラムが壊れてしまうと大変失礼に当たるので、必ずY.Oさんにすべて委ねようと決めていました。結果として無理なくしかも大胆で面白い構成だったなあと、Y.Oさんに深く感謝しております。

    自由度を持たせつつも、柱が揺るがなかったのが素晴らしいですね。Y.Oさんの奥さまの言うとおり、やっぱりプログラムにはその人の個性が出ますね。

    そう、みんなで作り上げたものですね。多くの弾きたい人聴きたい人がこの集まりを楽しみにしてくれて、みんないっぱい手伝ってくれて、みんないっぱい弾いてくれて!ありがたいことです。

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  5. 遅くなりましたが…いつも所感楽しみにしています。みなさん、心が広く、感情も豊かで、表現しきれなかった部分まで汲み取ってくださって、もったいないほどのお言葉!と思いながら読ませていただいています。
    毎度練習不足で、不安定極まりない私の演奏を、安定だなんて、もぅ、なんと言ったらいいか…

    聴いてくれている皆様も、弾いている自分自身も
    安心して曲の世界に入り込める演奏を目指して、これからも練習します!

    プログラム構成も、所感も、もちろん演奏も
    、毎回本当に感心してしまいます。
    みなさんすごいなぁ。

    本番前は、やめればよかった!!って思うくらいに焦りまくるのですが、やっぱり毎年得られるものが多すぎて、終わってみるとやってよかったって思うんですよね。

    今年もありがとうございました!

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    1. K.Sさん。
      欠かさず今年も家族みんなでご参加くださりありがとうございます!

      M.OさんやY.Oさんと少し違うかもしれませんが、私はK.Sさんのショパンを聴くといつも、ああ、ショパンってこうだよなあ、と感じます。まさに、といった感じでしょうか。私は演奏会でショパン弾いたことないんですけど、なんでって、私ではたぶんショパンではなくなってしまうように思うので。K.Sさんのように奇をてらわず弾けるというのは、聴いててほっとします。

      次は何を弾こうかと考えはじめておられるかなと想像しますが、私の場合、サイクルとして、

      1. 次は何を弾こうかな(ワクワク!)
      2. なかなか練習できんなあ(まあええか)
      3. エントリ受け付け?あれ、あと1ヶ月?(ちょっとやばい?)
      4. エントリ締切どないしょう、でも子供の手前やめるわけにも、まあええか!(あかんがな)
      5. 当日、あかん、やっぱやめといたらよかった(せやし)
      6. 弾いた直後、途中のミスタッチは全部忘れてフィニッシュ決めたことだけ記憶(めっちゃ都合ええし)
      7. 所感読んだあと、ぬくい言葉に癒される(よっしゃよっしゃ次もいったるで)

      こんな感じです。7がないと続かないかも(笑)

      みんなが聴かせてくれる十人十色の音楽と自分が弾くこのサイクルが、この演奏会が続いているエネルギーですね。これからもよろしくお願いいたします!

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    2. 好きな曲を好きなだけ好きに弾くというのが、アマチュアの最大の強みであり楽しみと思います。たぶん、音楽の演奏を職業にすると「好きな曲だけ」というのはなかなか難しいのかなあと想像します。
      といっても、職業音楽家の歴史はまだ数百年でしかなく、この演奏会のような形が本来の音楽の楽しみ方の姿かなと思います。特にK.Sさんの音楽はそんな事を思い出させてくれるのです。

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    3. ユングさん
      流れ(笑)似たような感じです(笑)
      6だけ違うかも!
      ミスタッチに1度落ち込むので。すぐ忘れるけど(笑)
      みなさんの、ぬくい言葉に癒されたので、また弾くと思います(笑)


      M.Oさん
      まさに!です。
      子供の頃、弾きたくない曲を弾くのが苦痛でした。
      でも、練習しないと上達しないのはわかっていたし、小心者で先生に怒られたくもなかったので、練習はしていました(笑)
      が、中学生の時、反抗心が爆発して、スパッとピアノ教室をやめてしまいました。

      でも、ピアノが嫌いになったわけではなく、家では弾き続けていたので、自分の意思で高3の時に再開しました。
      その時の先生が、趣味として続けたい意思をくんでくれて、好きな曲を弾かせてくれました。
      ショパンを勧めてくれたのもその先生です。私の音楽人生にとても影響のある出会いだったと思います。

      すっかり大人になってしまった今でも、好きな曲を弾ける場所があることに感謝しています。

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  6. Oさんの所感,不参加の不心得者も十分楽しませて頂きました.
    大学時代のサークルの演奏会でも各演奏にコメントを寄せて下さっていましたが,相変わらずの抜群に「心に残る」筆致,感服致します.

    刹那的(良い意味で)なライブ演奏を,文字としてだけでなく,心へもより強く定着させるというOさんの所感が持つ顕著な特性は,まさにartだと思います.

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    1. 実は「音楽」を言葉にして残すのは常に抵抗があるんですよ。言葉にしてしまうと、その音楽がその言葉に縛られてしまう危険性があるので。しかし、抵抗があるけど「この瞬間の想いは書き残しておきたい」という衝動も大きく、その葛藤の中で「書いてしまう」文章なので、artというのは気恥かしいですが、普段書いている文章とは趣が変わって来るのは確かですね。

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  7. 所感を読ませていただいて、あの日の演奏会をOさんの眼差しからもう一度
    体験させて頂いたような、とても豊かな気持ちです。
    物語を読んだ後みたいです。本当にartですね。
    いつもありがとうございます。

    ユングさんのサイクル、大爆笑でした。
    弾きたい曲を探しているときや見つかったときの、あのワクワク感。
    「雪にも夏の暑さにも負ける丈夫でないからだ」に、ムクムクと力が
    湧いてくるんですよね。

    この温かい演奏会と、ユング夫妻はじめメンバーの方々に、本当に感謝しています。

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    1. M.Mさん。
      あるあるサイクルです。M.Mさん今その状態??曲探しタイムかな??
      自分は次弾く曲見つけたよ!またブラームスさ。譜読み始めた。
      この時期がほんと充実してんねんな。そして1年後・・・いや、まあええか(あかんて)。

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    2. おお~ユングさんのブラームスが聴けるなんてうれしい!
      どの曲かなぁ・・♪
      こういうワクワクもあるんですね。

      先日のユングさんの「なんでベートーベン弾かないの?」の一言と
      またY.Oさんの曲解説が心に残り、お陰さまで、
      私はベートーベンにチャレンジです。
      なかなか練習が進まないけど。
      って、もうサイクル2!?(笑)

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  8. KSさんのこれまでのピアノとのつきあい、もう何年も一緒に演奏会をしているのに、そういえば知らなかったなぁと興味深く読ませてもらいました。

    私は演奏の参加はあまりしてないのですが、日常と違う特別な空間を毎年過ごすことが出来て、本当に有り難いと思っています。日常は慌ただしく煩雑なので、たまに離れることは大事ですよね。

    M.Mさんが毎年遠くから参加してくださり、感謝感謝です。演奏も、細やかな手仕事の看板も大好きです。

    みなさんの温かく自由な心意気に感謝です。

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